その日は、自身で設定した業務における年間目標に対するレビューで、
上司とマンツーマンで面談の予定が入っていた。
最大六人程度が入る、小さめの会議室で、二人。
私は、目標のレビューに入る前に「お話が……」と、
断りを入れた。
一呼吸置いて、何の前置きもなく、上司の目を見て、
「会社、辞めます」
と、簡潔に伝えた。
上司は「ええっ!? マジで!?」と目を丸くしていた。
「一応、部長に報告しなきゃいけないから……」と、
退職の理由を聞かれた。
私は、現時点で文章を書いてお金をもらえているので、
独立する旨を伝えた。
ある意味本当。
けれど、多くが嘘だ。
商業出版したことで印税は入ったが、
とても文筆業の執筆だけで生活できるレベルではない。
それに「独立したい」というよりは、
「この職場で時間を使うくらいなら辞めた方が幾分マシかも」
と判断したからだ。
上司は去年の四月から私の部署の長となった。
今年の四月には、大きく部内の人員を動かし、
わりと適材適所な配置をしてくれた。
私もその対象で、新しい業務で部署内が回り出したかと思われた、
その矢先の私の退職宣言だ。
上司の落胆は想像に難くない。
どうして私はそのタイミングで辞意を伝えたのか。
日ごろの鬱憤が限界値を超えての行動……というわけではない。
「色々重なった」というのが、正直なところだ。
昨年度までは、同じ部署内ではあるものの、
今とは違う業務にあたっていた。
そこでは作業自体はこれまで培ってきた知識でこなせるものの、
人員不足と業務過多気味だった。
ただ、精神的にそこまで追い詰められるほどではなかったし、
報道で見かけるような月に百時間の残業、というわけでもない。
業務をこなしていかないと、会社の基幹事業に、
クリティカルな影響を及ぼす……わけでもない。
おそらく、いわゆる「ブラック企業」で働いている人から見れば、
きっと「何を甘いことを言っているんだ」と言われるだろう。
ただ私は、この部署のために働くことに、疲れ切っていた。
思えば、作家として上手くいっていないことも、
仕事のせいにして逃げていただけだ。
自分から希望して、正社員登用の試験を受け、
今年の三月には登用が決まっていたものの、
四月の時点で特に組織に変化がなく、
今と同じ業務を続けなければいけないようなら、
辞めようと思っていた。
だが、さすがにそこは上司もわかっていたのか、
四月の部署内異動で、私はこれまでと全く別の業務に切り替わった。
「それなら」と、私も新しい仕事を覚えることにしたが、
「この会社のために頑張りたくない」という気持ちが、
消えることはなかった。
自分でも「ああ、これは、そう遠くない未来、辞めることになる」と思った。
そんな感情の流れだった。
四月から配属されたチームでは、私も戦力の一人だ。
私が辞めるとなれば、別の人員を確保しなければならない。
だとすれば、さっさと辞意を伝えておく必要がある。
これが、「色々重なった」理由の一つ。
とはいえ、今すぐ辞めたところで、次の職のあてもない。
当然、作家としても次作の目途は全くたっていない。
さすがにすぐ辞めることに恐怖感はある。
だから、自分で「辞めるトリガー」を決めた。
何もなければ今年度いっぱいは働こう。
ただ「イラッ」とすることがあったら、その時点で辞意を伝えよう。
私はこのように「トリガー」を決めた。
そして、ほどなくして「イラッ」とさせられることが起きた。
私の仕事は、同部署内の別チームとの連携が欠かせない。
私は三月まで、その「別チーム」で仕事をしていたので、
業務量過多気味なのはわかっていた。
だから、別チームメンバーに充てた、対応依頼のメールの文面を、
極力丁寧に、「お忙しいところ恐れ入りますが……」と、
ねぎらうような文面でメールを飛ばしたら、
別の社員から「同じ部署なのに、その文章はおかしい」と、
指摘が来た。
もしかしたら、私の職場におけるキャラクター的に、
慇懃無礼すぎたかな?とも思ったのだが、
直接ではなく、人づてにその指摘が来たのだ。
直接言われたのなら軽くあしらおうと思っていたのだが、
その「人づてにどうでもいいことを指摘する」というのは、
その社員の常套手段なのを、私は知っていた。
しかも、その社員が原因で、少なくとも二人以上のメンバーが、
退職していることも知っていた。
だから私は、「イラッ」とせずにはいられなかった。
そして、タイミングよく上司との面談予定が入っているではないか。
そう「色々重なった」のだ。
この中のどれか一つでも欠けていたら、
私は会社を辞めるなんて言わなかったかもしれない。
けれど、こんな風にブログを始めることもなかったかもしれない。
会社を辞めるのに良いも悪いもないのかもしれないが、
今回の件は、あまりいい流れではない、と、自分でも思っている。
こういうときは、おそらく、生活状況は(主に経済的に)悪化し、
後になって「失敗した」と思うことになるだろう。
それを好転させるためには、行動し続けるしかなく、
ただし、行動したところで、大抵はまた失敗する。
退職時期はこれから話し合いで決めていく。
退職後の予定は何も決まっていない。
今、色々と考えているところだ。
そもそも高い家賃払って東京に住み続ける理由もなくなる。
じゃあどこに行こうか?
実家はダメだ。親は作家業を仕事だと思っていない。
どこか家賃の安いところで、またバイトでもしようか。
老後に二千万? とても生きていけないな……。
面談の時間を私の退職話に費やし、
上司と私は会議室から引き揚げ、執務室に戻る。
私の前を歩く上司の背中は、いつもより寂しそうだった。
そうさせたのは、きっと私だ。
けれど許してほしい。
どうせこれから失敗続きでひどい目に遭うだろうから。